カテゴリ:ローラン創世記( 13 )

 

ローラン創世記

ローランギャロ創世記。

20周年記念誌として配布された中にも一部抜粋して紹介しましたが、1話から12話までここに紹介したいと思います。
当時(’80後半)の世の中の様子、時代背景を踏まえて書かれているそうです。

以下一覧です。

01 題目:サークル名は「九州大学テニスサークル・ローランギャロ

02 題目:キャベツのようなサークル

03 題目:女神が微笑んだ

04 題目:チーム・ローランギャロ

05 題目:チャンボー?

06 題目:一着一筆運動

07 題目:伝言ダイヤル

08 題目:いつか大きな星になれ

09 題目:ジロー風

10 題目:ジョーの家

11 題目:コソレン

12 題名:天使の心
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  by rg20aniv | 2006-10-03 00:00 | ローラン創世記

12 題名:天使の心

1988年5月1日(日)9:30姪浜駅集合。

能古島ツアーへの出発である。

この年、ローランギャロは初めて後輩達を迎え、
ようやく2学年のサークルとなった。

どうやって後輩達とサークルを創っていくか、
どうやって仲良くまとまっていくか、
何もかもが手探りだった。

スポーツサークルなのだから、何か青空の下で親睦が図れるようなものはないか。
その当時の我々が出した答えが、新入生歓迎・能古島ツアーだった。

初代は福岡出身が多いため、能古島に遊びに行った経験を持つ者も多い。
大学生が能古島ツアーなんて確かにスマートなイベントではないが、
そこを敢えて選んだ。

皆でフェリーに乗るという面白み、
頂上のアイランドパークまでの適当な距離、
そして春には花々が咲き乱れる。
そして何よりも安全、安心であった。

しかし、唯一の心配は天気だった。もし、雨だったら。。。

その時は、予定を変更してボーリング場かどこかに駆け込もう。
当時はそういう小回りが効く人数しかいなかったが、
それでも多くのメンバーが参加したので、ざっと30人は超えていたと思う。

フェリー、そしてアイランドパークまでの道のり、その時点で新入生(2代)達のキャラクターが見え始めた。

アイランドパークへ着いた我々は、
ドッジボール、バトミントンと、古典的でお決まりのゲームをして楽しんだ。

そしてその中で最も記憶に残っているのが、大縄跳びだ。
皆の息が合うかどうか試すにももってこいのゲームだった。
しかし、これが簡単なようでなかなか難しい。一人ずつ入って来ている時点で、
既に誰かの足にひっかかってしまう。
ひっかかった人は照れくさそうに、笑うしかなかった。

と言っているうちに、チームの全員が縄に入ることができた。
と、その時、新入生の田口さんが転倒してしまった。

が、次の瞬間、我々は目を疑った。
転倒した田口さんは、次の縄が回ってきたときに、
なんと背中でジャンプ、そう背面ジャンプで縄をクリアしたのである。

2代目・田口さんの鮮烈なデビューだった。

皆は最初、何が起こったのか理解できなかった。
一瞬、笑いも起きない間が空いた。
しかし、事実として「飛んだ」のである。

我々は一瞬の間の後、涙が出るくらい腹を抱えて笑ったが、
それと同時に考えさせられるものがあった。

我々は年を経るにつれ、いつしかどうでも良い恥じらいや見栄が出てきている。
だから、縄が自分の足にひっかかったら、
照れくさそうに笑うしかなかったのである。
しかし、一生懸命やれば、
もうちょっと頑張れば、
それがどんな方法であれ、世間体や自分の殻さえ考えなければ、

何でもできるだ。

田口さんは皆に迷惑かけないように一生懸命飛んだのである。
田口さんのデビューは鮮烈な印象と共に、我々をサークル創世の原点に戻してくれた。
特に後輩達が入ってきてからは、
先輩らしく、上級生らしくと格好つけようとしていた初代にとっては痛いくらい目が覚める出来事だった。

皆と一緒に何でも一生懸命やっていこう、そんな気持ちに戻ることができた。
あの背面ジャンプという行動は、一瞬でも周囲を気にしては絶対にできない。
生まれたままの、純で素直な気持ちでないとできないと思う。

この後も田口さんの活躍は目覚ましいものがあった。
そしてその度に我々を純な気持ちに戻してくれたのである。
もちろん、このような事件ネタだけでなく、テニスの腕も驚くべき速さで上達した。
それも全ては素直な気持ちがあってこそだと思う。

ローランギャロの創世記に、天使の心を持った少女がやってきた。
我々は、その後も彼女から多くのことを学んだ。
だからこそ我々は今でも思う。
素直な気持ちでもうちょっと頑張ってみようって。
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  by rg20aniv | 2006-10-01 12:00 | ローラン創世記

11 題目:コソレン

1987年当時、
ローランギャロは誰もが認める素人集団だった。
そんな我々もしばらくすると、
試合が出来るレベルになってきた。
それと共にテニスが楽しい、もっとうまくなりたいという純粋な気持ちが芽生えてきた。

中には、テニス雑誌やコーチ書をもとに、
フォームから細かいテクニックに至るまで、
更にはボールが回転するメカニズムまでも徹底的に勉強する者もいた。

その典型が畑島くん(初代)だったが、彼は豊富な知識を持ちながらも、
それを実践できない、
特に試合になると全くの素人に戻ってしまう
というジレンマに苛まれていた。

そんな彼が火付け役になった行為がある。
人知れず練習する、こっそり練習する
"コソ練"
である。

もちろんこれは、もっともっとうまくなりたいという純粋な気持ちが原点なのだが、
雰囲気的には試験前に
「ぜんぜん勉強してない」と言いながら、
試験本番では良い点をとってやろうという卑劣な行為に似ていた。
彼のこの行動に気付いたRGメンバー達は、
何故か同じ行動をとり始めた。
皆がコソレンを始めたのだ。
練習の時間ではないのに何故かラケットを持ち、どこかに向かう。

時にはコソレンに向かう原チャリ同士が出くわすこともあった。
そんなに皆がコソレンをするのであれば皆で練習すれば良いとも思うのだが、
それではコソレンの意味が無いのだ。
こっそり練習して、他のメンバーに差をつける。
そこに我々は意味を見出していた。

しかし、コソレンには限度があった。
相手がいて初めて成り立つテニス。

コソレンでできることは、
素振り、
壁打ち、
壁相手のボレー&ボレー等
に限られていた。
サーブの練習なんかしてしまうと、ボールの回収が大変だった。

そこで次に始まったのは、ペアを組んでのコソレンだった。
畑島くんと私(鳥羽)のコソレンは、桧原コートでやっていた。
このコートは利用者が少ないのに加え、無料だった。

次の利用者が来るまで練習しようという条件で朝7時に練習を始め、
結局次の利用者が来なくて、
ボールが見えなくなる夕方6時まで練習していたこともあった。
若い頃は体力があったとは言え、
途中からは練習ではなく、意地の張り合いに変わっていた。

1988年 には RG に後輩達が入ってきた。
"コソレン"はどうも聞こえが悪い。
そこで我々は陰で練習するということで"カゲレン"と呼ぶようになった。
呼び名は変わっても、もちろん意味は変わっていない。
最近でも当時のメンバーに会うと「最近どう?」と聞く。
相手は決まって「忙しくて何にもやってない」と答える。
でも、実際には何かのコソレンをやっているかもしれない。

他人を疑う嫌な癖がついてしまったものだ。
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  by rg20aniv | 2006-10-01 11:00 | ローラン創世記

10 題目:ジョーの家

1988年春、待望の後輩達が入ってきた。
後輩達を入れるかどうかについては、
副部長だった村山くん(初代)宅で論議した上、
決を採った。

我々は自分達で創ったサークルなのでサークルがつぶれようが衰退しようが自己責任の範囲である。
しかし、後輩達が入ってきたらそうはいかない。
後輩達の貴重な大学生活がかかっている。
絶対にこのサークルはつぶせない、
後輩達にローランギャロに入って良かったと思ってもらえるようにならなくては、
と心新たにした。

我々初代の多くは自宅生。
それまでサークルの打合せやボールの保管は、持ち回りでそれぞれの家でやっていた。

と、そこへ入ってきた一人暮らしの新入生、城崎くん(2代)。
我々は彼の住むハナブサビルに早速、ボールやサークル関係の備品を運び込んだ。
そもそもその人柄から、後輩達の多くが男女を問わず彼の家に集まっていたのだが、
そこに我々も乗り込んだ。彼の家はまさに部室と化したのである。
以後、練習スケジュール、合宿計画、学際の準備、等など、
サークル運営に関わる意思決定も彼の家で行なわれた。

特に後輩たちは、
彼が持っていた当時の最新家庭用テレビゲーム「ファミリーコンピュータ」を使い、
テニスゲームに明け暮れていた。
素人集団だったローランギャロも、このゲームの中では強かった。
当時、連盟でファミコンテニス大会をやれば、ローランギャロは絶対に優勝していたと思う。
テレビゲームとは言え、実際のゲームの組み立てにも良い練習になった。

しかし、欠点もあった。
テレビゲームの中でスマッシュを打つ時にはボールの"影"に合わせるとうまく打てる。
そう、実際のテニスでもローランギャロはボールの影に合わせてスマッシュを打ち始めた。

兎にも角にも、いつも誰かが城崎くんの家"ジョーの家"にいた。
本人がいなくても誰かがいた。
ジョーの家が、創世記のローランギャロに果たした役割は計り知れない程大きい。
それと引き換えに、彼が失ったプライベートな時間はもっと大きい。
そう、ローランギャロの創世記は、ある一人のメンバーの犠牲の上に成り立っていたのだ。
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  by rg20aniv | 2006-10-01 10:00 | ローラン創世記

09 題目:ジロー風

教養部(六本松)の体育館の横、生協の2階にある「軽食」。
ここが当時のローランギャロの部室のような所だった。
階段を上った正面の少々右、一番窓側のテーブルが我々のシマだった。

昼休みはもちろんのこと、
空いた授業のコマにも、誰かがここにいた。
サークル関係の連絡事項はもちろんだが、
当時の教養課程(1年生+2年生前期)においては、
学部学科に関係なく共通した選択科目の中から単位を取得していく方法が年間を通じて行なわれていたため、
授業についての情報交換の場としても大いに役立っていた。
特に試験前は、
広範囲の学部学科のメンバーで構成されたローランギャロの情報収集力は群を抜いており、
気が付くとローランギャロ以外の人達も何故か輪の中に入っている、
そんな光景を良く目にした。

しかし、このことは後々になって良いことにつながっている。
何故か輪の中にいたメンバー達の中には、いまだに仲の良い者もいるし、
何と言っても様々な学部学科の仲間達とは本学(箱崎)に行ってからも色んな話をした。
お互い自分の所属する学科だけでは聞けないような話も聞けて、
視野は大いに広がったと思う。この視点は社会に出てからも大いに役立つ。

そんな我々が毎日毎日飽きずに食べていたのが、

ジロー風スパゲティー。

焼きタラコと丁度良い半熟玉子が特徴のパスタだったが、
これも作ってくれる調理師の方次第で味の当たり外れがあった。
本当にジローさんが作ってくれた時は大当たり。
なんとも言えない美味さと食感は未だに忘れられない。
べちょべちょ玉子なんて大外れもあった。
でも、それはそれで良かった。

創設当時のローランギャロは、実はジロー風が原動力だったのである。
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  by rg20aniv | 2006-10-01 09:00 | ローラン創世記

08 題目:いつか大きな星になれ

爆風スランプの歌に「Blue Bus Blues」という曲がある。

「大きなたまねぎの下で」という曲が流行った頃の歌だった思うが、
これは爆風スランプがまだ無名だった頃の様子を唄ったものだった。
当時、この曲の「いつか大きな星になれ」という歌詞に大きく共感した。

1988年7月17日午後1時半。
集合場所は天神4丁目、中央郵便局隣の日本銀行前。

我々にとって後輩を連れた初めての合宿となった。
向かうはグリーンピア八女。フレームショットが使ってみて良かったというので、
紹介してもらった場所だった。

後輩を連れての初めての合宿は、極めて気が張ったものだった。
それは当日だけでなく、計画段階からかなり気が張って、緊張していた。
練習メニューはどう組み立てるか?
事件事故が起こった場合の対処方法は?
合宿費がいくら位だったら皆にリーズナブルと受けとってもらえるか?
そして合宿から帰る時に、
個々が「上達した」、「楽しかった」と思えるものにするにはどうしたら良いのか?
そういう緊張と不安を抱えながらも、
当日集合した後輩達の顔を見ると、その楽しそうな表情が我々を救ってくれた。

そして現地へ到着。
練習。
晩飯。
なんとか1日を乗り切った。

外に出て空を見上げると、そこには今まで見たことないような星空が広がっていた。
流れ星がひっきりなしに走っていく。
天の川がすごく広範囲に、そして綺麗に見えた。

駐車場に停めてあった車の陰で、その星を眺めながら後輩の高嶋くん(2代目)と色んな話をした。
少しロマンチックな描写をしているようだが、
実際問題、六本松ではなかなか見ることのできない光景だけに、
ただその光景に飲み込まれていただけという方が正しいかもしれない。

この後輩達は、この無名の弱小サークル・ローランギャロに入ってきて果たして幸せなのだろうか?
そんなことが頭をよぎる。
食事を終え、楽しそうに会話している後輩達を車の陰から見ていると、

「今は出来たばかりで何も揃っていないサークルだけど、
この後輩達が卒業する頃には、
このサークルに入って良かった、楽しかった、そう思ってもらえるようにならなくては。絶対に。」

そう強く思った。
「今はちっぽけだけど、いつか大きな星になれ。」
この気持ちがあったからこそ、爆風スランプのBlue Bus Bluesに共感を覚えた。

それから2年半後。
博多浪漫座で行なわれた我々の代(初代)の追い出しコンパで、私はこの歌を唄おうと思っていた。

が、しかし、
後輩達にメッセージを述べ始めた初代メンバー達が次々に涙を交えながらのコメントを発してしまったため、
予期していた会場の雰囲気とは異なり、
私は急遽この歌を唄うことを止めて、メッセージだけに変更したことを覚えている。

このサークルには、皆それぞれの強い思いがあるのだ。
改めてそう感じた追いコンだった。
初代のメンバー一人一人がステージの真ん中に立って、
後輩達にメッセージを贈る。
それを見守る後輩達。
「こんなに人数いたっけ?」
気持ち的にも人数的にもそう感じるほどローランギャロが大きく見えた。
「少しは大きな星になれたのかな」
この光景を見て、私はそう思った。
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  by rg20aniv | 2006-10-01 08:00 | ローラン創世記

07 題目:伝言ダイヤル

1987年当時、
ローランギャロが他のサークルに先駆けて活用していた連絡方法があった。
それはNTTの「伝言ダイヤル」サービスである。

雨天時の練習の有無、
練習場所の変更、
お互いの所在確認、
連盟戦をはじめとする様々なイベントからコンパの二次会連絡まで、
外出してしまってからのあらゆる連絡は、この伝言ダイヤルを使っていた。

このサービスは、自宅や公衆電話からNTTの伝言ダイヤル・サービスセンターに電話をかけ、
暗証番号と共にメッセージを残すもの。
メッセージを聞く際には、暗証番号を入力すれば聞くことができるし、
追加のメッセージを残すこともできた。

1980年代後半は、2002年現在のように誰もが携帯電話を持つ時代ではなかったので、
我々にとってはかなり有効なサービスだった。
この手のサービスは、この後色んな会社が参入して出会い系等のあらゆる伝言サービスが氾濫した後、
今ではNTTとして災害時の伝言サービスを残している程度のようだ。

そしてその当時のローランギャロの暗証番号が、

********#
(情報保護のため、実際の番号の記載を差し控えさせて頂きました。)

暗証番号は7、8桁の番号+#と決まっていたので、
ローランギャロのメンバー誰もが覚えることのできるものにする必要があった。
忘れた時に何らかの意味から思い出せるもの、
そして緊急時にも即座に思い出せるもの、
できれば体で覚えられるものが良い。
自宅の電話を前にして思いついたのが、この*******#だった。

数字としては単なる羅列に聞こえるが、
プッシュホンの特性を活かして体で覚えられる。
ということで、当時のローランギャロの暗証番号はこの番号、
4桁の場合は****が使われていた。

*******#こそ、
当時の我々のコミュニケーションをバックアップしてくれたマジックナンバーなのである。

ちなみに当時の他の連絡方法として、
大勢が車で移動する際にはトランスミッターという装置を使っていた。
これは無線免許を必要としないFM送信機で、車にも簡単に搭載することができた。
通常は一番先頭の車、トランスミッターが2台ある場合は一番先頭と最後尾の車に搭載し、
全車決められたFMチャンネルに合わせることで連絡が取れるというもの。
 あの頃、携帯電話がこれほど身近になるとは思ってもいなかった。
しかも、自分達の世代がその携帯電話を開発していくことになろうとは。
(例えば、東芝に就職した川勝くん(初代)など)


もしもあの頃携帯電話があったら?
きっと相当便利だったに違いない。

しかし例えそうであっても、
あの楽しかった時間とかけがえの無い仲間達は今も変わっていないことだろう。
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  by rg20aniv | 2006-10-01 07:00 | ローラン創世記

06 題目:一着一筆運動

1987年の春。九州大学テニスサークル・ローランギャロは誕生した。
しかし、その頃は全仏オープンも有名ではなかった時代。
「ローランギャロ」と言って通じるわけがない。

「どこのサークル入っとーと?」
「ローランギャロ」
「あ??何ギャル?」


全くもってそんな感じだった。

九大の有力テニスサークルの一角を成そうと目指しているグループが
こんな調子でどうするとかいな?
しかも、全仏オープンのことを聞いたことが無い人達にとっては「ローランギャロ」など、
意味の無いカタカナの羅列でしかない。
どうしたものか。。。

やはり人には「どこかで聞いたことある。。。」とまず感じさせることが肝心。
無意識に見聞きしているテレビCMの言葉でも、
脳裏に残っているから宣伝になる。

そこで考えたのが「一着一筆」運動。

運良く、大学と言うところは講義によって、教室も席も変わる。
だから、講義の度についた机の上に「ローランギャロ」とさりげなく鉛筆で書き残す。
そうすると、次に座った人は無意識にその文字を目にする。(鉛筆なのですぐに消えてしまうが)

これでどうだ!

皆の潜在脳にうったえる。
「どこかで聞いたことある。。。」
そんな世界を創り出す。

我々は早速、一着一筆運動を開始した。
その効果は如何に?

「机の上に何か"ローランギャロ"って書いてあったね」
と言ってくれた友人は確かにいた。
しかし、それ以前にこれは単なる落書き行為である。
今思えば大人げないことをしてしまったと反省している。
しかもかなり本腰入れて。

九州大学、本当にごめんなさい。
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  by rg20aniv | 2006-10-01 06:00 | ローラン創世記

05 題目:チャンボー?

1987年7月15日。
博多で言うところの追い山の日に、ローランギャロは連盟戦デビューを飾った。

1回戦は相手も初心者が多く、ビギナーズラックも功を奏し、
伊藤・鳥羽ペアに至っては1-4ダウンから5ゲーム連取するなど、
他のチームメンバーもすさまじい快進撃を遂げた。

背の高い伊藤くんからくり出される非常に打点の低いサーブが、
相手の不意をついたのかもしれない。
何が良い結果に結びつくか分からなかった。

しかし、2回戦からは様子が違った。我々は甘かった。
テニス慣れした相手が次々と出てきたのだ。試合のはじめ、
コートの中央に向かうと相手がおもむろにラケットを回した。
あまりの手際の良さにそれがトスであることに気付かず、
「何かいな?」と思って、2、3秒間、相手の目を見つめてしまった。

我々が何も言わなかったので、相手がもう一度ラケットを回した。
「スムース」と言ってやった。
そう、「スムース」しか知らなかったのだ。
裏が「ラフ」なんてことは、その試合の後に知った。
また一つ賢くなった気がした。

試合開始後、困った。相手の言うことが分からない。

「ジャスト」???
何やそれ?、である。
ジャスト何?。ジャストインなのかジャストアウトなのかどっちや?
相手は慣れたように
「ジャストです」
と言って、格好良く指一本立てている。
相手がまた構えたってことは、ジャストアウトってことなんだ。

また一つ賢くなった気がした。


村山・畑島ペアの試合が始まった。
1回戦を勝ち抜いて迎えた相手は熊大のノーバック・ハンド。
相手のサーブが来た。スピンサーブだった。
当時、我々の中にはちゃんとスピンをかけたサーブなんて打てる奴はいなかった。
この世の中にあんなに曲がるサーブがあるなんて知らなかったのだ。

「危ない!」と思った瞬間、
曲がってくることを予測していなかった村山くんは思わず左手でボールを取ってしまった。
大爆笑したペアの畑島くんであったが、これまた曲がってきたサーブを避けきれずアゴに直撃。

思わずバランスを崩して
ふらついてしまった。

 「チャンボー」???

相手がまた分からないことを言った。
何やそれ?
チャンピオンボールだと思った。
「チャンスボールって分かったのは、そのボールで決められた後だった」
と畑島くんは言う。


柴田・今村ペアは壮絶な争いを続け、ゲームカウント6-6。
我々に最大の試練がやってきた。

「タイブレーク」。。。。。。。。。。。。。。。

誰もそんなものは知らなかった。
頼りのテニス経験者である今村くんも、はっきり覚えていないと言う。
皆、またピンチに陥った。
そこで偉かった今村くん、自信をもってらラ・フォーリ相手に指示を出した。
このタイブレークが前代未聞の逆回りだったことは試合の後になって分かった。
しかし、自分の考えをもって、自信をもって実行することが物事を進める上で如何に良いことか、
皆にとっては非常に良い教訓になった。


こうして華々しいデビューの日は終わった。

その後、皆が

 「ジャストです!」

と指を立てるのが癖になったということは言うまでも無いであろう。
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  by rg20aniv | 2006-10-01 05:00 | ローラン創世記

04 題目:チーム・ローランギャロ

『連盟戦』 と言えば、教養部の東門に朝早く集合し、
車に分乗して海ノ中道に向かっていた。
が、それはサークルらしい活動が行なえるようになってからのこと。
美しい思い出として意識的に覚えている部分なのである。

先輩もいない状態で、創設間もない夏の連盟戦から参加した我々ローランギャロが、
車など便利なものを持っているはずがなかった。
福島くん(初代)の青いカローラII(当時トヨタが出していた車)以外は、
免許を持っている者が親から借りてきて、やっと2台か3台になる程度。
その台数で皆が乗っていけるはずがない。

乗れなかった人達はと言うと、原動機付き自転車、いわゆる原チャリで列をなし、
海ノ中道へと向かったのである。
背中にラケット、足元にバッグ。そのためにガニ股状態

このお決まりのスタイルで遥か遠い海の中道へと向かった。

しかし、この当時原チャリも捨てたものではなかった。
現在のスクータータイプが出てきたのも、我々が大学に入る少し前のこと。
ヘルメット装着が義務付けられたのも大学に入る前の年。
そんな時代だった。

ようやく格好の良い50ccバイクが出現し始め、
大学生の移動手段としての地位を確立し始めた頃だったので、
皆楽しんで乗っていたというのも事実である。しかし、海ノ中道は遠かった。
行きはヨイヨイ、帰りは。。。というのはまさにこのことであった。

それはともかく、当時のローランギャロはどこに行くにも原付だったのだ。
学外コートとしてメインで使っていた舞鶴公園のコートに行くにも、
南区の桧原コートに行くにも、
他のサークルが颯爽と車で乗りつけるところを原チャリの集団で乗りつけていた。
自分達のことを原チャリ集団「チーム・ローランギャロ」と呼んでいた。

秋の連盟戦が始まる頃には少し車の数が増えていたので、
問題は解決したかのように見えた。
しかし、春になるとうれしいことに多くの後輩達が入って来てくれたので、
また皆が乗れなくなった。

後輩達の車搬送を優先させ、
原チャリで行く元気がある先輩達は再び原チャリで向かうことになった。
が、しかしこの年には良いものができた。
マリゾン から 海ノ中道ホテル までフェリーが通航したのだ。
乗れない原チャリ陣は、東に向かわずに西新に向かった。
我々だけでなく後輩の高嶋くん達にもこのルートを使ってもらった。
でも変わらなかったのは、フェリーになっても帰りが寂しかったということ。

冬には初のローラングッズ、
背中に大きく「ROLAND GARROS」と書いた黒いウインドブレーカーを作った。
(福島くんだけは何故か
原チャリ集団にはもってこいのグッズだった。
このお揃いのウィンドブレーカーを着て原チャリで列をなしていた「チーム・ローランギャロ」。
結果的にはテニスだけでなく、広報活動を兼ねたツーリング活動も多かったようだ。
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  by rg20aniv | 2006-10-01 04:00 | ローラン創世記

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