04 題目:チーム・ローランギャロ

『連盟戦』 と言えば、教養部の東門に朝早く集合し、
車に分乗して海ノ中道に向かっていた。
が、それはサークルらしい活動が行なえるようになってからのこと。
美しい思い出として意識的に覚えている部分なのである。

先輩もいない状態で、創設間もない夏の連盟戦から参加した我々ローランギャロが、
車など便利なものを持っているはずがなかった。
福島くん(初代)の青いカローラII(当時トヨタが出していた車)以外は、
免許を持っている者が親から借りてきて、やっと2台か3台になる程度。
その台数で皆が乗っていけるはずがない。

乗れなかった人達はと言うと、原動機付き自転車、いわゆる原チャリで列をなし、
海ノ中道へと向かったのである。
背中にラケット、足元にバッグ。そのためにガニ股状態

このお決まりのスタイルで遥か遠い海の中道へと向かった。

しかし、この当時原チャリも捨てたものではなかった。
現在のスクータータイプが出てきたのも、我々が大学に入る少し前のこと。
ヘルメット装着が義務付けられたのも大学に入る前の年。
そんな時代だった。

ようやく格好の良い50ccバイクが出現し始め、
大学生の移動手段としての地位を確立し始めた頃だったので、
皆楽しんで乗っていたというのも事実である。しかし、海ノ中道は遠かった。
行きはヨイヨイ、帰りは。。。というのはまさにこのことであった。

それはともかく、当時のローランギャロはどこに行くにも原付だったのだ。
学外コートとしてメインで使っていた舞鶴公園のコートに行くにも、
南区の桧原コートに行くにも、
他のサークルが颯爽と車で乗りつけるところを原チャリの集団で乗りつけていた。
自分達のことを原チャリ集団「チーム・ローランギャロ」と呼んでいた。

秋の連盟戦が始まる頃には少し車の数が増えていたので、
問題は解決したかのように見えた。
しかし、春になるとうれしいことに多くの後輩達が入って来てくれたので、
また皆が乗れなくなった。

後輩達の車搬送を優先させ、
原チャリで行く元気がある先輩達は再び原チャリで向かうことになった。
が、しかしこの年には良いものができた。
マリゾン から 海ノ中道ホテル までフェリーが通航したのだ。
乗れない原チャリ陣は、東に向かわずに西新に向かった。
我々だけでなく後輩の高嶋くん達にもこのルートを使ってもらった。
でも変わらなかったのは、フェリーになっても帰りが寂しかったということ。

冬には初のローラングッズ、
背中に大きく「ROLAND GARROS」と書いた黒いウインドブレーカーを作った。
(福島くんだけは何故か
原チャリ集団にはもってこいのグッズだった。
このお揃いのウィンドブレーカーを着て原チャリで列をなしていた「チーム・ローランギャロ」。
結果的にはテニスだけでなく、広報活動を兼ねたツーリング活動も多かったようだ。
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  by rg20aniv | 2006-10-01 04:00 | ローラン創世記

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